活動報告

iSPP 設立総会&記念全体会合 開催レポート(その1)

速報でもお伝えしたように、5 月 24 日(火)に東京・TKP 東京駅八重洲カンファレンスセンターにおいて、iSPP の設立総会&記念全体会合が開催されました。

本レポートでは、その内容を詳しくご紹介します。

■ 日時:2011 年 5 月 24 日(火)18:30 〜 20:30

■ 場所:東京・TKP 東京駅八重洲カンファレンスセンター

■ Agenda
1. 記念講演「被災地自治体の取り組み」 宮城県名取市市長 佐々木一十郎様
2. 設立総会
3. 記念全体会合

iSPP 設立総会 記念講演および全体会合 議事録 (205KB)

iSPP 設立総会 議事録 (98KB)

 

記念講演 「被災地自治体の取り組み」
宮城県名取市市長 佐々木一十郎様

名取市と震災の被害について
名取市は仙台市の南、広瀬川の右岸に位置し、その中でも閖上は日本一の赤貝の産地として知られている。住民は 2,550 世帯、人口 7,000 人の規模。この地域は漁港と貞山運河(江戸時代に伊達政宗の命により開削された日本で一番古く長い運河)が有名だ。

震災前後の様子を航空写真で比較すると、今回の震災の被害の大きさがはっきりと分かる。今まで津波が到達したことのない内陸部にまで、水害がもたらされた。

名取市では、死亡と確認されたのが 905 人、行方不明者は 135 人、流出・全壊した家屋が 2,500 戸と報告されている(講演日現在)。

発災後の救援活動
震災当日の夜は停電で、ロウソクでなんとかしのいだ。状況把握に全力を尽くし、1 人でも多くの救える生命を救おうと職員全員が奮闘した。まず避難所の開設、水・食料・毛布の配布、救助活動、避難所に必要な資材機材を揃えるために、あちこちに電話をかけまくった。

避難先となった閖上中学校は、建物の 2、3 階は助かったものの、津波が押し寄せる前にたどりつけなかった人は助からなかった。

名古屋から入った自衛隊が瓦礫を撤去したり、避難所への食料配布、遺体の安置などの対応をしてくれた。遺体の検視と同時に、市役所で安否情報の取りまとめを急いだ。

市の職員も懸命に災害対応に励んだが、彼らも被災者であることにはかわりない。家族を亡くしたある職員は、以下のような、被災者を励ます手書きのメッセージを市役所に貼り出した。

「最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。
苦しいけど負けないで」

生存者の救援活動後、災害現場での瓦礫の撤去が始まった。同時に罹災証明発行の受付、応急仮設住宅の準備など、市の災害対策は次のフェーズへと進んでいった。名取市では 5 月中にほとんどの被災者が仮設住宅に入居できる予定で、これは被災地の中でもかなり早い方だろう。

災害時の情報手段
発災時は電気も止まり、通常の情報伝達手段はほとんど断たれてしまったため、避難指示の伝達方法も非常に限られてしまった。FM 放送をもう少し早く立ち上げていれば、もっと市民の安全に関する情報を出せただろう。

防災行政無線 屋外の電波を使うが、地震でメインのヒューズが飛んでしまった。
テレビ 災害直後に停電して使えなかった。
ラジオ 携帯ラジオがあればいいが、今はほとんどの人が持っていない。車のラジオで津波を知った人もいた。
消防本部・消防団車両での広報町内会/自主防災組織の広報 各エリアをまわって、拡声器で津波の避難指示を出した。閖上でも最後まで従事していた消防職員3人、消防団員 19 人が殉職することとなってしまった。町内会長や市会議員など、地域のキーマンも亡くなっている。
電話 電信柱が倒れ、交換機もダウン、震災時まず止まった。
携帯電話 つながりにくいが、電源がもってた間は 24 時間ぐらいは一応使えていた。
携帯メール 携帯電話と同様。丸一日でダウンした。
インターネット 携帯と同様。電源がなければ使えない。中継基地が潰れて、かなり長い間使えなかった。
衛星携帯電話 市役所に1セットあるが、かける相手が出られないとつながらない。政府は被災地以外とは連絡できたが、被災地には使えず。宮城県とは行政無線でつながっていた
アマチュア無線 リピーター局の中継基地を市役所の災害対策本部屋上に置くことで有効に。宮城県全域と交信可能だった。

 

被災地で必要な情報とは

航空写真で、災害前後の地形の違いを説明する佐々木市長

情報伝達手段も限られ、数日間混乱し、当日寒かったが備蓄してあった水、食料、毛布 2,000 枚を全員に配れなかった。また被災者側も情報が得られないことで、一層不安におそわれながら一夜を明かした。

<災害発生時に把握したい情報> ・どこに誰が避難しているか
・各避難所に何人いるか
・要援護者がどこに何人いるか
・避難所で必要なものは何か
<被災者が欲しい情報> ・自分の家族は無事か
・どこにいるのか
・友人知人は無事か
・どんな救助プランがあるのか
・自分はどんな援助が受けられるのか
・仮設住宅に入れるのか、いつ入れるのか
・自分の土地がどうなるのか
・家は立てられるのか
・どんな復興プランが出てくるのか
・いつだれが復興プランを作るのか

 

避難所での暮らし
避難所の生活ではプライバシーはないが、隣近所のコミュニティが機能しており、互いに助け合えるし、とりあえず食事がとれる。

しかし情報が希薄で、壁新聞や噂、行政からのお知らせが主な情報源となっている。災害 FM は震災 1 カ月後に立ち上げられた。テレビではテロップを流すことで、ある程度情報の提供が行えた。

しかし、欲しいものが手に入らない、移動の足がない、お金がない、といった無い無い尽くしの避難所生活が続いており、避難所と自主避難でも温度差がある。中には食事時だけ避難所に来る人もいて、全体の管理が難しい。

インターネットの環境がなかなか整備されなかったが、ベンダーの協力で徐々に整えていっている。避難所にアマゾンの「ほしい物リスト」の仕組みを導入して役立っているが、せっかく便利なツールがあっても、使えない状態が長いこと続いた。

災害対策本部で困ったこと
停電、断水など、様々な問題に対処しなければならなかったが、ガソリン等、燃料が枯渇したために現場が止まる危険性が高まった。3 月中もこの状態が続き、タンクローリーをチャーターしなければならない異常な事態だった。

物質的な問題以外にも、政府のコントロールが麻痺したり、連絡網もないといった問題に苦戦した。次々と新しい問題が起こり、マニュアルに想定していない災害対策を取らなければならない局面も少なくない。作業に従事する現場と、マニュアル通りに行動しようとする県警の間で齟齬(そご)も生じ、折にふれて、「マニュアルは捨てろ、見てもしょうがない」と職員を叱咤激励して、現場を止めないというポリシーを貫いた。やがて、その名取方式が、日本の災害現場でスタンダードになっていった。

しかし、ポリシーで動けといっても、自己判断ができない職員もおり、職員のスキル自体も見直す必要があると反省した。

被災者情報を一元的に管理する手段がなく、罹災証明の発行などがすぐに行えなかった。既存のソフトをスムーズに導入できなかったこともネックとなった。